フランクル「夜と霧」新版再読

人事異動予定が次々と明らかになってくるシーズン到来です!

意にそまぬ異動に備えて、ではありませんが、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」(みすず書房刊、1977年新版の池田香代子訳、2002年4月第41刷。1974年旧版の霜山訳は電子書籍でも読めます)再読、旧版も含めると三読めです。

霜山徳爾氏訳の旧版は、高校時代に読みましたが、正直、内容理解は今イチだったと思います。
というのも、この本はヤングアダルト向けに戦争の悲惨さを伝えるために書かれたものではなく、原題の通り、「心理学者、強制収容所を体験する」、という、精神のありようを記録したものだったから。
「長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、精神病理学の立場で解明しようとするこの試み(p.109)」と、フランクル自身がはっきり書いています。
そのことがわかったのは、産業カウンセラーの資格を取るための勉強をしていた際、ロゴセラピー(実存分析)の創始者としてフランクルの名が挙がっていたのを機に新版を購入、再読した時でした(新版と旧版の相違は、「訳者あとがき」に池田氏の考察が詳しく書かれています)。

そして今回、通算三度目。
なぜだろう、今さら涙が出ちゃうのは。

(前略)人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあった(以下略、p.110)
この箇所の後の数ページは、ロゴセラピーの根幹を平易な言葉で語っていて、引用しだしたらキリがないのでやめておきますが、何かを成し遂げるか否かで人生の価値が決まったりするわけではない、ということが、すう、っと伝わってきます。

そういえば、中学の時、面談で、担任の先生が言っていた言葉も、同じ意味でした。
「病気や障害のために、自分は何も世の中の役に立てないと思ったら、生きている意味はないと思う?きっと、そうじゃないと思うのよ。」
今はもとうに亡い先生との、一番大切な思い出です。

というわけで、意にそまぬ異動で好きじゃない業務に就くことになる方も、気が済むまで憤った後は、前向いていきましょ。

因みに、どうしても辛くて、AIに慰めてもらいたい時、私は次のようにチャットを始めます。
「あなたは共感的で心優しいカウンセラーで、ロゴセラピーとグリーフケアの専門知識があります。私の・・・」
このAIの解答にも、よく泣かされるなあ。
依存注意、ですね。

「ミドルマーチ」読了

先行者さんが期限内に返却してくれて、無事読めました、大団円!
実は、翻訳者の廣野由美子さんのウェブ講義を先に聞いておりまして(それが読み始めたキッカケです)、内容は知っていたのですが、やっぱり聞くと読むとじゃ大違い、沁みます。
ヒロインのドロシア始め、登場人物たちは、ミドルマーチで共に生きた日々から、それぞれの先の人生へ歩き出します。

この大長編のフィナーレの〆?は、次の文章です。
「世の中がだんだんよくなっていくのは、一部には、歴史に残らない行為によるものだからである。そして、私たちにとって物事が思ったほど悪くないのは、人知れず誠実に生き、誰も訪れることのない墓に眠る、数多くの人々のおかげでもあるからだ、」

思い出したのは大好きな少女マンガでした。
「やがて私達と共に
社会の一部となって
密やかに穏やかに
この世界を支えていく存在になっていくよ」
(ひかわきょうこ「彼方から 第7巻」白泉社文庫デジタル版、p.316)
「でも たくさんの人が
それぞれがそれぞれに与えられた自分の持ち場で
生き生きと頑張って
微力で大きな力を世界に拡げているよ」
(同 p.319)
「人は結局、本当に等身大で生きることが出来た時、最大の力を発揮するんじゃなかろうか。」
(同 あとがき」)

作家と漫画家の二人が記しているのは、まるで、日常生活の中で、エッセンシャルワークに励む人々へのエールのよう。
この二人がどちらも女性であることに、もしかしたら意味があるような気もします。
表現者として世に出た二人の女性の、生活者としての自分たちや、身近な女性たち、シャドーワークを担う人々へ向けた、暖かい眼差しであるような。

そして、揺籃期のテクノロジーに身を捧げた?、ワタシやあなた、その他全ての老若男女への・・・

「ミドルマーチ」を3巻まで読んだ

暑くて走る気がしないので、この週末は読書三昧です。

英文学史上最高傑作とも言われる「ミドルマーチ」(ジョージ・エリオット作 廣野由美子訳、光文社古典新訳文庫版)全4巻中3巻まで読みました。
この本、図書館で借りて読んでいるのですが、私より1巻分だけ先行して読んでいる方がいるようで、まとめ借りしようと思ったら3巻だけ書棚になく、3巻を貸出予約して受け取りに行ったら、今度は4巻が無い、というちょっと楽しい展開になっています。

「ミドルマーチ」は、1829から32年のイギリスの架空の町 ミドルマーチを舞台にした、NHKの朝ドラ、じゃなくて、私の好きなオースティンやハーディの世界、つまり階級社会を背景に、ヒロインが悩んだり間違えたりしながら生きていくドラマチックな小説です。
それはそれで大好物なんですが、今回、刺さったのは、鉄道建設をめぐる、事業者と地元の人々の関わりです。
ちょっと長くなりますが、引用。

第56章
p.277
鉄道とは何かということについて、正確なことが何もわかっていないために、フリックでは住民全体が鉄道に反対だった。というのも、この草深い田舎の片隅では、未知なるものを称えよという諺に従うような傾向は見られなかったし、むしろ未知なるものは貧乏人にとっては不利なものだから、疑ってかかるのがよいというように考えられていたからだ。

p.288
運河ができたからって、貧乏人にとって何になる?肉もベーコンも持って来てくれるわけじゃないだろ?食うのを我慢しないことには、給料だって溜まりゃしねえ。わしの若いときに比べて、ますます暮らしにくくなってきた。だから、鉄道ができたって、おんなじことよ。貧乏人はほったらかしにされるんだ。

p.289
こういう相手は、否定しようのない真実をつかみ取っていて、彼らの実感できない社会の利益について、理路整然と説いて聞かせてみたところで(以下略)

これ、「鉄道」を浮体式洋上風力に、「運河」を電気自動車に置き換えても、全っ然違和感ありません。
新しい技術やインフラがもたらす効果や意味をあらかじめ理解してもらった上で導入していくのって、19世紀だろうが21世紀だろうが、難しいということなんでしょうね。

できればこんなことを、私より1巻分先に読んでいる見知らぬ人と、お話ししてみたいものです。

「小さいおうち(中島京子)」と「小間使い(キャサリン・マンスフィールド)」

「小さいおうち」と「小間使い」、2冊をたまたま同時期に読んで(読み返して)気がつきました。
・・・ちょっと、似てる。
どちらも家事を担うべく住み込みで雇われた女性、女中と小間使いのお話です。
小さいおうちのタキは平井家の奥様に家族のような親友のような愛情を、小間使いのエレンは奥様と大奥様(既に故人)に崇拝と慈愛の入り混じったような愛情を抱いています。
いずれも雇用者と被雇用者の関係なわけですが、舞台は20世紀初頭の英国(たぶん。ニュージーランドかも。)と昭和10年代の日本、良くも悪くも両者の心理的距離の近さは現代の比ではありません。
タキはその後独身のままいくつもの家庭で働き、老後を迎えますが、大切な人として想うのは、空襲で亡くなったあの奥様だけ。
エレンは奥様から離れることが嫌で、決まりかけた結婚を取りやめて奥様との暮らしを選びます。
その在り様を、タキはノートに綴り、エレンは客人に語るのです。
読む人によって、いろいろな感想、意見が出てきそうな物語です。

さて。
「小さいおうち」で、一番心に残ったのは、登場人物のひとりが口にし、後にタキが回想する、「黒薔薇(くろしょうび、吉屋信子が私的に発行した冊子及びその掲載作品」の一節)。
「男女相愛の道程を辿るのは第一の本道であるにちがいない、けれどもなお第二の道はあるはずだ。そしてまた同時に第三の道も許されていいはずだ。」
異性愛、同性愛、職業愛(?)を肯定する文章です。
私は「黒薔薇」を読んだので(所有してます)わかるのですが、ここでは、同性愛のことを暗示していると思います。
ラスト近く、このお話ではひとつの謎が提示されるのですが、そこからも、
「タキは奥様に恋していた」
というふうに感じずにはいられませんでした。
さすが中島京子、と言っちゃったら、逆に偏見になりそうだけど、私は好きです。

そして、「小間使い」。
エレンの場合は、恋しているというよりは、「この人は、自分がいなくなったら生きていけない」と、無意識のうちに感じていたのかも、と思いました。
この時代の上流家庭、家族だけで家事をこなす能力も、そうする理由もあるわけもなく、エレンが去れば次の小間使いが雇われるだけです。
でも新しい小間使いは、エレンの奥様への愛情まで引き継いでくれることはないでしょう(誠意はあるかもしれませんが)。
とはいえ、エレンも自分自身の好みや行為が皆無というわけではありません。
大奥様の幼い姪たちを市(いち。今で言う商業イベントでしょうか)へ連れて行った際、荷車用ではない、娯楽用のきれいな飾りをつけたロバに心を惹かれます。
そしてその夜、エレンはその思いを一人、口にします。
「あたし、驢馬にのってみたいわ。驢馬にのってみたいのよう!」
・・・ここ、一番心に響きました。
純粋な、紛れもない自分の望み、たった一つの願い。
いいなあ!
こんなに何かに心から思い焦がれてみたい、とゼータクなことを思ってしまいました。

「キャスターブリッジの市長」を読んだ

「はるか群衆を離れて」にハマって以来、粛々と読み続けてきたハーディ作品、今回はコレです。
「キャスターブリッジの市長(トマス・ハーディ著、藤井繁訳、昭和60年 千城刊)」

ストーリーは複雑ではないのですが、あらすじを説明するのとちょっと長くなります。
19世紀前半のイングランド、貧しい労働者で激しい気性のマイケル・ヘンチャードは、酔った勢いで自分の妻と一人娘を船乗りの男に売り飛ばしてしまいます。
酔いが覚め、ことの重大さに気づいた彼は妻子を探しますが見つからず、後悔の中、地道に働き、やがて裕福な穀物商になり、キャスターブリッジの市長にも選出されます。
そんなある時、キャスターブリッジに、あの妻と娘がヘンチャードの消息を追ってやってきます。
船乗りが遭難し、消息を絶ったというのです。
ヘンチャードは姻戚として妻を町に住まわせ、時期を見て「結婚」することになります。
ただ、娘のエリザベスは、船乗りを実の父と信じており、妻を売った過去を明かせないヘンチャードは「義父」に甘んじざるを得ませんでした。
さて、人身売買事件以降、酒も断ち、真面目に生きるヘンチャードでしたが、商売にも市政にも古色蒼然とした手法しか持ち合わせません。
そこに現れたのが若く、合理的な経営手腕を持つドナルド・ファーフレイでした。
ファーフレイはヘンチャードにマネージャとして雇われ、信用を得ます。
万事、良い方向に向かうかに見えたヘンチャードの人生でしたが、妻と離別した後、懇意になった女性・ルセッタが彼を追ってキャスターブリッジに現れたことから、暗雲が広がり始めます。

・・・ああ、長い!あらすじなのに!後は端折ります。

結局ヘンチャードは破産し、妻は亡くなり、娘も実は船乗りの娘(ヘンチャードの実子は幼くして死去していた)で他人だったことが判明、どん底に落ちますが、自分の罪多かった人生を償うように、ひっそりと、ある意味穏やかに死を迎えます。

この作品、とにかくヘンチャードというキャラが濃い!
聖人君子からは程遠いのですが、エネルギッシュで自分の感情に常に正直なのです。
生き方は下手だし、酷いヤツなんだけど、全くの悪人ではない。
無力でちっぽけで、でも、かけがえのない一度きりの人生を全力で生きた、そういう人物です。
まあ、彼の描写にハーディの力が入りすぎていて、ファーフレイが中盤から「つまんねえヤツだなあ」になってしまうんですが、それも気になりません。
ハーディ、ヘンチャードを全力で描写したのですね。
今の日本ではあまり話題にならない作家ですが、やっぱり好きです。

さて、細かいところでは、「ウェザベリーの農夫のジェイムズ・エヴァディーン」、「ボールドウッドという、いつもは静かで、無口な青年」(p.314)という記述に萌えました。
これ、「はるか群衆を離れて」バスシバの叔父さんと、若い頃のボールドウッドさんに違いない!
ってことは、「はるか」の20年前くらいの時代が想定されているんですね。
こういう話ができる、ハーディ友だちがいたらいいのにな、とちょっと思ってしまったことでした。

「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」を読んだ

平野耕太「ヘルシング」始め、吸血鬼モノ好きなので手に取ったこの本でしたが、目ウロコでした。
ざっくりまとめると、ブラム・ストーカーの名作「吸血鬼ドラキュラ」は、ヴィクトリア期英国が異質なるもの(文化、民族、未知の感染症etc.)の侵入と、それによって自国の従来のありようが駆逐されていく恐怖を象徴している、というお話です。
えー、小説って、必ずしも何かを象徴したり、隠喩したりして書かれるワケじゃないでしょ、ドラキュラは作者の素晴らしい想像力によるロマンだよ、と最初は思った私、早とちりでした。
そういう単純なことではないのです。
作家が生きた時代、その時代の雰囲気、臭い、生活、意識・・・あらゆるものが、作品を構成する要素どころか元素になっているということ。
それを納得させてくれる本でした。

そういえば、最近アニメ「銀河英雄伝説」平成版を見直した時、戦闘以外の場面でやたら違和感がありました。
民主主義のはずの同盟側の人々の生活ぶりが、何というか、20世紀な感じ(昭和な、と言いたくなるくらい)なのです。
中流以上の家庭には専業主婦のお母さんがいるのが標準らしいことを筆頭に、教育であれ職業であれ、女性と男性でコースは自ずから分かれているような、そういう「空気」になっていて、生活感に未来らしさがないんですね。
まあ、原作が書かれたのは昭和の時代ですし、私が忘れているだけで、ルドルフ皇帝によって「多様性」が否定されたことで男女のステレオタイプも退行した、という記述もあったかもしれないのですが。

2021年春の今、コロナ感染症やら女性・女系天皇、SDGsと多くの問題が論じられていますが、この中には、100年後に、「何で当時議論になったのか、感覚としてよくわからない」と言われるようになるものがあるかもしれません。
例えば「男系天皇って、要はあるY遺伝子の保存問題だったわけで、するとそもそも、途中で誰かウソついていて、そのY遺伝子が(以下自粛)。だから意味のない議論じゃん。」なんて言われるようになってたりして。
遺伝子論ではない、この時代の感じ方ってものが伝わっていくのか、それともこの本のように改めて解析しないとわからないことになってしまうのか、ちょっと興味が湧いてきました。

「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」丹治 愛著、東京大学出版会、1997年初版

「さいはての彼女(原田マハ)」を読んだ

1か月間お試し無料!につられて、Amazonのkindle読み放題で、片っ端から読みまくってます(セコい)。
原田マハさん、といえば、絵画と画家を扱った作品がメインかと思ってましたが、この作品には、走れない時のライダー垂涎(私のiPadはこの熟語を知らなかった・・・)モノのアイテムがぎっしり詰まってます。
夏の北海道、ハーレー、凄腕カスタムビルダーでもあるうら若いライダー女子、おいしそうな地元のお寿司!

ストーリーは、ひょんなことから北海道の路上で出会った女性ライダーとタンデムツーリングすることになった、やり手の女性起業家である主人公(というより語り手)と、魅力あふれる女性ライダーのロードムービー、いや、ロードストーリー?です。
一泊二日の思いがけない旅で、主人公が見出したものは・・・・

うーん、原田マハさん、「走り」の描写がみごとです。
爽快感は、角野栄子さんの「ラスト ラン」に負けてないです。

小心で、しかも神奈川県民である私は、この夏、呪縛にかかったみたいに、「プライベートな遠出」を忌避してしまっています。
自分が無症状感染者ではない、という確信が全く持てないからです。
出張途中の特急の中で、昼食のパンを手でちぎって食べたけど、手を洗ってから食べ始めるまでの間にドアノブ素手で掴んじゃった!とか、後から気にしてもどーにもならないことを数え上げてしまうので。

私タイプのライダーは少数派かと思いますが、もしそんな方がいらっしゃいましたら、ぜひこの「さいはて」をお試しください。
来年かその次かはわからないけれど、夏空の下を走るため、今の苦しさを乗り越えられる気がしてきます。

モンテ・クリスト伯にハマる

きっかけは、森山絵凪氏のコミック版「モンテ・クリスト伯」でした。
この方の作品、掲載が青年誌だけあって、お約束で濡れ場というかライトエロが数ページ入ってくる(!)のがやや難点で、あまり人に勧められないのですが、そこを大目に見て後悔しないくらい、感動したのです。
そのため、森山氏があとがきで勧めている岩波文庫版をkindleでほぼ一気読み!

・・・よかったです。
ページめくり過ぎで、右手の人差し指の皮膚が硬くなってきた気がするほど、夢中で読みました。
児童文学版にまとめられた「岩窟王」などでよく知られている通り、ざっくりいうと、無実の罪で14年間を牢で過ごした主人公(エドモン・ダンテス=モンテ・クリスト伯)が自分を陥れた者たちに復讐するお話です。
でも、陰惨なテーマを扱っているようで、実は救いのある物語、なんですね。

この主人公、モンテ・クリスト伯という人が、復讐に燃えると言いつつ、何というか、人格者なんです。
そして、信仰厚いクリスチャン。
人格者で、神の正義を信じるが故に、人の道を外れた人間に容赦ないけれど、高潔な人、不幸にある人に対しては限りなく優しい、という人物。
ベースがクリスチャンだから、こういう行動様式になるのかな?仏教徒だとどんなストーリーになるんだろう?などと考えてみたりして。

ラストシーンは、涼しい海風を感じさせるような清々しさでした。
自分を不遇だと思う時に、読み返すことで勇気が出てくるに違いない7冊でした(岩波文庫版の全訳の場合)。

日陰者ジュード(ハーディ著、小林清一訳、千城刊)

夏風邪が長引いて、連休中日は休養&読書で過ごしました。
で、読み終えたのが「ジュード」。
最近、ハーディにハマってます。
19世紀ビクトリア朝のイギリス、貧しい青年ジュードは学問を志しますが、貧しさと身分制のため果たせず、愛する女性とも宗教に阻まれて結ばれず、失意のうちに若くして無名のまま病没する、という、私があらすじを書くと身もフタもない話みたいになりますが、まあ、そんな内容です。

テーマは重いんですが、意外に心に残ったのは、脇役しかもタチの悪い女性キャラでした。
その女性、アラベラは養豚家の娘ですが、まじめでいい夫になりそうなジュードに目をつけ、誘惑し、妊娠したと偽ってジュードと結婚します。
まあ、悪女なんですが、何というか、生命力にあふれ、生きる意欲に満ちているのです。
時代に押し潰されていくかのようなジュードとは対照的に、時代をたくましく生き抜いていく人物です。
私はアニメ「ルパン3世」の峰不二子ちゃんを思い出しました。
脱線しますが、こういう輝くように生きる不二子ちゃんの魅力を最大限に引き出し、テレビ版の女性性を武器にするイヤラシさを排除したのが「カリオストロの城」だった気がします。

若い頃だったら、絶対嫌ったに違いないキャラの魅力も評価できるようになったとは、私も年を取ったもんだ、などと思ってしまいました。

「勝つ人のメンタル」(大儀見浩介)がついに出た

出張帰り、新神戸駅の売店で買って読みました。
「勝つ人のメンタル トップアスリートに学ぶ心を鍛える法」(大儀見浩介著、日経プレミアシリーズ)、ついにビジネス書のジャンルで出たか、というのが最初の印象です。

二輪車安全運転大会系の方(?)には既におなじみかと思いますが、いわゆる「ゾーン・フロー」、つまり緊張とリラックスの中間にある、最もパファーマンスの上がった状態で勝負所を迎えるための訓練方法についての解説本です。
参考文献のページを見ると、ああ、たぶん、あの話はこの本、その説はこっちの資料、などと出典が想像できそうな気がしました。

ものすごく大雑把にまとめると、試合やプレゼンテーションの本番で、普段通りあるいはそれ以上の結果を出すための技法です。
私もかつて二輪車安全運転大会の選手だったころ実践し、想像以上の結果になったという経験がありましたので、仕事にも応用できないかな、とはうっすら考えていました。
が、どうすれば仕事に応用できるか、その具体的な手法はわかりませんでした。
だいたい、フツーの技術系サラリーマンにとっての本番っていつなのよ?
現場のおっちゃん達と渡り合う時か!?
利害関係のある社外の人々とバトルする時か!?
・・・あまり書くと、柄の悪いブログになってしまいそうですが、「本番」をいつと見定めるか、実際にはそれが一番重要なのかもしれません。

自分にとっての本番を見極め、達成すべき目標が見えた時、この本がきっと役に立つ!
・・・かどうかは人それぞれと思いますが、私がバイクで実践してきたトレーニングを、例えば会社の人に説明するには良い本かな、という印象です。