「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」を読んだ

平野耕太「ヘルシング」始め、吸血鬼モノ好きなので手に取ったこの本でしたが、目ウロコでした。
ざっくりまとめると、ブラム・ストーカーの名作「吸血鬼ドラキュラ」は、ヴィクトリア期英国が異質なるもの(文化、民族、未知の感染症etc.)の侵入と、それによって自国の従来のありようが駆逐されていく恐怖を象徴している、というお話です。
えー、小説って、必ずしも何かを象徴したり、隠喩したりして書かれるワケじゃないでしょ、ドラキュラは作者の素晴らしい想像力によるロマンだよ、と最初は思った私、早とちりでした。
そういう単純なことではないのです。
作家が生きた時代、その時代の雰囲気、臭い、生活、意識・・・あらゆるものが、作品を構成する要素どころか元素になっているということ。
それを納得させてくれる本でした。

そういえば、最近アニメ「銀河英雄伝説」平成版を見直した時、戦闘以外の場面でやたら違和感がありました。
民主主義のはずの同盟側の人々の生活ぶりが、何というか、20世紀な感じ(昭和な、と言いたくなるくらい)なのです。
中流以上の家庭には専業主婦のお母さんがいるのが標準らしいことを筆頭に、教育であれ職業であれ、女性と男性でコースは自ずから分かれているような、そういう「空気」になっていて、生活感に未来らしさがないんですね。
まあ、原作が書かれたのは昭和の時代ですし、私が忘れているだけで、ルドルフ皇帝によって「多様性」が否定されたことで男女のステレオタイプも退行した、という記述もあったかもしれないのですが。

2021年春の今、コロナ感染症やら女性・女系天皇、SDGsと多くの問題が論じられていますが、この中には、100年後に、「何で当時議論になったのか、感覚としてよくわからない」と言われるようになるものがあるかもしれません。
例えば「男系天皇って、要はあるY遺伝子の保存問題だったわけで、するとそもそも、途中で誰かウソついていて、そのY遺伝子が(以下自粛)。だから意味のない議論じゃん。」なんて言われるようになってたりして。
遺伝子論ではない、この時代の感じ方ってものが伝わっていくのか、それともこの本のように改めて解析しないとわからないことになってしまうのか、ちょっと興味が湧いてきました。

「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」丹治 愛著、東京大学出版会、1997年初版

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