お守りとルーティーン

選手だった頃、各課題のスタート直前には必ず、軽く握った右手を胸に当てて、ゆっくり息を吐きました。
いわゆる「ルーティーン(ルーティン)」です。
自分で決めた動作を必ず行うことで、いつも通りの状態を作ること、と言えばいいでしょうか。
緊張をほぐし、集中力を高める効果があるのだそうです。
実際、その効果は絶大だったと思います。

私のルーティーンは、見た目、上記のような動作でしたが、実は少し違っていました。
胸に手を当てていた、のではなく、ユニフォーム越しに胸のペンダントに触れていたのです。
このペンダントが、私の大切なお守りでした。

といっても、霊験あらたけ、じゃなくて、霊験あらたかな神社のものとか、家族からのプレゼントとかではありません。
私がお守りとして育てた?ごくふつうの、ドッグタグ風のアクセでした。

次に鈴鹿に行くのは選手になった時だ!と決意したあの年、クリスマスの時期に、私は自分用に、小さなペンダントを買いました。
友人が砧で練習する時、いつもネックレスをしていて、カッコよかったのでマネしてみようと思ったのです。
初めてそのペンダントをして砧にいったのは12月25日、レディースバイクの日でした。
その日の練習は、休み時間の他愛ない会話も含めて、本当に楽しく充実していました。
今思い出しても、ああ、あの日は幸せだったなあ、と迷わずに言えるくらいです。

そんな素敵な日にデビューしたペンダント、これから砧で出会う幸せな思いをすべて一緒に経験していこう、楽しい思い出がいっぱい詰まった自分だけのお守りにしていこう。
そう思いました。
その日以降、私は一度も欠かさずペンダントを着けて砧を走りました。
ペンダントは目論見通り、砧での練習の思い出がびっしり詰まった、かけがえのない、自分だけのお守りになったのです。

スタート前、私はペンダントに手を当てて、楽しかった練習や、その時間を共に生きたひとたちを想っていた、ような気がします。

蛇足ですが、その後、ペンダントを忘れて、砧の練習(警察署主催でしたが)に参加した際、転倒して右足を骨折してしまいました。
でもそれは、お守りがなくて守ってもらえなかったから、ではなくて、お守りを忘れていくくらい、精神的に余裕がなかったからそういうことになってしまった、ということだと思っています。

プレッシャー

このタイトル見て、ビリー・ジョエルの歌を口ずさんでしまった方、同世代です(笑)

さて、このカテゴリーでは、私の二輪車安全運転大会経験をなるべく時間軸に沿って書いていくつもりでした。
が、ちょっと予定を変更して、今回は、全国大会の選手になった時のプレッシャーのことを書きたいと思います。

神奈川県の場合、選手選考は県大会の成績だけでなく、その後の特練での適性確認?結果を考慮して行われます。
最終的に選手に選ばれると、それはもう、周囲に大切にされて、ほとんどお姫様状態です。
でもそれ、実は物凄い、プレッシャーそのもの、なのです。
何故なら、大切にされているのは、「ありのままの私」ではなく、「全国大会で結果を出すはずの私」であり、もっと言っちゃうと、「県代表選手という座にいる誰か」「関係者一同の期待に応える誰か」だということを、ひしひしと感じてしまうから。
要は、責任の重さに気づくわけです。

では、その責任を果たすために、自分は何をしなければならないのか?

答えは「できることすべて」でした。

本職を抜かりなくコントロールして朝はコソ練、通勤電車の中ではイメージトレーニング、夜帰宅したら、どんなに遅くても呼吸法のトレーニングと日記作成、日々の体調管理、週末は練習用のマシン(大会車両と同じ原付を、色まで想定して購入してました)のメンテ、とにかく必死でした。

特にイメトレでは、各課題の最後に、審判の方から「減点ゼロです。」と言われるところ、その審判に向かってにっこり笑いながら、ありがとうございます、と言うところ、さらにその後、後方よし、と大きな声とともに後方確認して次へ進むところ、までイメージ(妄想?)しました。
・・・ハタから見たら、かなりキモかったことでしょう。

ついでに書くと、朝の通勤電車での妄想(苦笑)の時は、映画「トップガン」の挿入曲「Topgun Anthem」を聴いてました。
映画のクライマックスで、不審機を撃墜し帰艦したトム・クルーズが、仲間たちと抱き合って喜ぶシーンに憧れていたからです。
私も、快挙を成し遂げたら、きっとトム・クルーズみたいに仲間と抱き合い、歓声をあげることができるはず!
応援してくれたみんなと、がんばって応えた私と、ともにサイコーの気分になっているはず!
そういう思いで、毎回のイメトレを締めくくっていました。

「プレッシャーをストレスではなくパワーに変えること」
「応援してくれる人に感謝すること」
特練で学んだことでしたが、私の場合、イメトレを通して、これらふたつを実行できていたのではないかと思います。

プレッシャー、悪くないでしょ?

HMSバランス(NC750の素敵過ぎるセルフステア)

参加しました。
もう、タイトルだけで内容完結という感じですが、感動的だったのでとりあえずメモしときます。

千鳥、NC750だと、セルフステアでぐっと逆ハンドルが切れて、気持ちよく最適ラインに乗せることが出来ました!
それにしても、セルフステアって、左右の旋回のうち、得意な方で強く感じるもの、みたいですね、

メカニカルトレーニング

「自己肯定感」という、とてつもなく大きな宝物を手にした私は、自分に何が一番欠けているのか、足りないのか考えてみました。

考えてみましたけど・・・よくわかんなかった!

というわけで、まずはがむしゃらになってみるしかないと思い、とにかく繰り返し練習、つまりメカニカルトレーニングをやることにしたのです。
要は、「毎日素振り千回」ということですね。
生産性の向上が国をあげて叫ばれる中、非効率も甚だしいどころか非国民と言われても文句が言えない方法ですが、下手くそは横着しないでマメにやるしかない、というところでしょうか。

繰り返し、フルロック8の字の練習をやる。
繰り返し、フルロック千鳥の練習をやる。
繰り返し、エア一本橋?に乗る。
繰り返し、繰り返し。

その頃はそれなりに自分の時間を作ることができましたので、毎朝4時に起きて走りに行きました。
・・・と言いたいところですが、よく頑張ってせいぜい週3でした。
それでもやはり場数を踏む、というのは効果があるもので、何となくフルロックができるようになり、少しずつ技として使えるようになり、と、カメの歩みで成果が出てきたのでした。

そうして私は、自分が普通の人の何倍かの努力そして時間をかけなければダメなタイプであることを知り、練習に執着?するようになっていったのでした。

転機をもたらしてくれたのは

次はサポーターとしてではなく、県代表選手として鈴鹿に立つ!
そう決心できた背景には、私の練習に対する考え方の変化もありました。

特練で、何年も自分の無能さばかり感じていた私にとって、練習は、自分の良くない点、出来ないことだけに目を向けがちな、ネガティブで辛いものになっていました。
でも、その考えを変えてくれる方が、私の近くにいてくれたのです。

「このコース内には、たくさんの宝物が落ちています。それを手に入れて下さい。」
初めて会った時、その方はこう挨拶をしてくれました。
そんな素敵な考え方を教えてくれる指導者についていくうちに、私にとって、練習は楽しむもの、自分を笑顔にしてくれるものに変わっていったのです。

今できないことがあるとしても、そしてそのことで他人から批判されることがあったとしても、自分で自分を貶めたり、傷付けたりする必要はない。
嫌な思いをガマンすることが鍛錬なんじゃない。
いつしか、そう思えるようになっていました。
私は自分に必要な練習方法を見つけることも、それを続けることもできる、と気付いたのです。
練習することの楽しさを教えてくれた、その指導者のおかげでした。

私に負のスパイラルから抜け出す勇気をくれたその方に、心から感謝しています。
いつか私も、その方のような指導者になれたら・・・と思います。
でもそれはまた、別のお話、ですね。

特練7回やりました

長い下積み(の下積み?)を経て、特練メンバーとなった私でしたが、その後の県大会での成績は次のようなものでした。

2008 3位
2009 4位
2010 4位
2011 1位
2012 1位
2013 1位
2014 2位

まあ、よく3年目でリストラされなかったというか、周囲の方のご理解あっての7年間だったとつくづく思います。

最初の2年間、私はサポーターとして、選手とチームを支えるため、鈴鹿に同行しました。
チームに貢献できるよう、最大の努力はしたつもりですが、選手が戦う間、誰もいない片隅のブルーシートでたった一人、競技も見られずに荷物番をするのは、結構、精神的には辛かったです。

そんな卑屈な私に転機が訪れたのが3年目でした。
私の知る女性選手で、サポーター経験者はいない、ということに気付いたのです。
このまま自分はサポーターしか経験しないのかな?
選手になる人とサポーターにしかなれない人と、二通りあるのかな?
(実はこのサポーター経験が、後に私を十二分に支えてくれるのですが。)

思い悩んだ挙句、次に鈴鹿に行くのは、選手になった時だ!と心を決めました。

長くなりましたので、今宵はここまでといたしましょう。

HMS中級(上体を動かす練習で見えてきたもの)

約一か月ぶりに参加しました。
最初の車両チェック走行で、いつもなら走り始めに毎回驚く、NC750の強いセルフステアが感じ取れなくてちょっと焦りました。
いきなり力み過ぎたのでしょうか?

そんなスタートでしたが、今日のテーマは「身体を動かす」。
オフセット盛りだくさん、上体バリバリ動かしてね~、な練習でしたが、ワタシには別の収穫?がありました。

なぜか、比較的簡単に、走るべきラインが、はっきり見えてしまったのです。

あのパイロン攻略するためには、手前のこのスペースから刺さなきゃいけないんだな、とか、あの一角は必ず通さないと後で貯金がなくなる、とか。

ラインがわかってると、上体を動かす練習がとってもやりやすくなるのですね。
M本インストラクターの作成したコースが明快で分かりやすかったのだと思いますが、感動の体験でした。

え、肝心の身体の動き?
それはまた、別のお話

私が大会に出た理由

初めて二輪車安全運転神奈川県大会に出場したのは確か2004年でした。
動機は、ローダウン改造したMonster800でも参加可能だったから。
・・・って、書くと意味不明ですね。
本当は講習会に参加したかったのですが、ローダウンしたモンスター、つまり改造車はダメ、と聞いていたので、申込書で改造車について特に触れられていなかった大会に出ることにしたのです。
当時、女性クラスは排気量無差別でしたので、800ccでも参加できました。
まあ、何も知らないシロートでした。

(なお、ワタシの「改造車」は、足着き改善という安全目的?だったためか、結局その後、講習会にも参加させていただくことができました。)

以降、私はモンスターやスーパーシェルパで、毎年女性クラスに出場しました。が、2008年、レギュレーションが変更され、女性クラスは50cc限定になってしまいました。
仕方ないので、というわけではありませんが、シェルパを手放してファントムを購入、出場した途端、3位に入って特練初参加となったのでした。

でもこれ、はっきり言って、遅すぎのビギナーズラックか、単にその年に人材が乏しかったか、どちらかだったと思います。
その証拠に、特練初参加から鈴鹿初参戦まで、実に5年の歳月を要したのです。

長くなってしまいましたので、今宵はここまでといたしましょう。

私が選手を辞めた理由

今年も二輪車安全運転の季節がやってきました。
私は昨年の県代表選手選考での敗退を機に引退して、今はちょっと違う立場で大会に挑んでいます。
でもやっぱり、夏が近づいて来ると、心は騒ぐと同時に、少しだけ痛くなります。

このときめきと痛みが消えないうちに、思い出話を書き留めておくことにしました。
でも、ただの感傷モノでは自分でもつまらないので、多少なりとも、どなたかの参考になるように書いてみたいと思います。

というわけで、まずは自分の引退理由・・・って、全く初回のネタとしてふさわしくないか?
でも、最初にハッキリさせておきたいので。

引退の理由、それはズバリ、
「潮時だと思ったから」
です。
では、何が私に潮時を感じさせた?のか、数え上げてみましょう。

【その1】年だよ、年!
私はかなり前から、ある年齢になったら、若い人に道を譲ろう、と考えてました。
・・・上から目線でごめんなさい。
でも、いい年をして、若い人が掴むべきチャンスに自分がしがみついて譲らないのはよくないな、と思っていたのです。
まあ、私が譲ろうが譲るまいが、チャレンジしたい人はチャレンジするわけですし、女性もAやBクラスに参戦できるのですから、どーでもいいことなんですが、自分なりの年の取り方として、後進に道を譲るというステップが必要だったということでしょう。

【その2 】時は移り人は替わりゆく
私が大切に思い、一緒に走ることが何より幸せだった人たち、何人もの人たちが、それぞれの道に従って、離れたり遠ざかったりして行きました。
私もまた、同じ場所、同じ時間にとどまり続けることはできない、次へ進まなければ・・・
そう思いました。

【その3】時間、なくなりました
リアルつるばらをご存知の方はご承知と思いますが、ワタシ、ハッキリ言って
ド下手
です。
選手だった頃は、本当に寸暇を惜しんで練習し、可能な限りの準備をし、選手で有り続けるために、たぶん普通の選手の何倍もの努力をして、なんとかついて行っていた、というのが実情です。
その努力を続ける時間的余裕が全くない状態になってしまったため、中途半端なことをするよりは、潔く身を引こう、と決めました。
正直、この時ほど、上手な人、というか、生産性の高い、優秀な選手を羨んだことはありません。
私が人並みの能力を持っていたら、こんなにも時間と労力をかけなければ選手で居られないほど無能でなければ・・・白状しますと、ボロ泣きしました。

まあ、だいたいそんな感じで、私は引退を決めたのでした。