「キャスターブリッジの市長」を読んだ

「はるか群衆を離れて」にハマって以来、粛々と読み続けてきたハーディ作品、今回はコレです。
「キャスターブリッジの市長(トマス・ハーディ著、藤井繁訳、昭和60年 千城刊)」

ストーリーは複雑ではないのですが、あらすじを説明するのとちょっと長くなります。
19世紀前半のイングランド、貧しい労働者で激しい気性のマイケル・ヘンチャードは、酔った勢いで自分の妻と一人娘を船乗りの男に売り飛ばしてしまいます。
酔いが覚め、ことの重大さに気づいた彼は妻子を探しますが見つからず、後悔の中、地道に働き、やがて裕福な穀物商になり、キャスターブリッジの市長にも選出されます。
そんなある時、キャスターブリッジに、あの妻と娘がヘンチャードの消息を追ってやってきます。
船乗りが遭難し、消息を絶ったというのです。
ヘンチャードは姻戚として妻を町に住まわせ、時期を見て「結婚」することになります。
ただ、娘のエリザベスは、船乗りを実の父と信じており、妻を売った過去を明かせないヘンチャードは「義父」に甘んじざるを得ませんでした。
さて、人身売買事件以降、酒も断ち、真面目に生きるヘンチャードでしたが、商売にも市政にも古色蒼然とした手法しか持ち合わせません。
そこに現れたのが若く、合理的な経営手腕を持つドナルド・ファーフレイでした。
ファーフレイはヘンチャードにマネージャとして雇われ、信用を得ます。
万事、良い方向に向かうかに見えたヘンチャードの人生でしたが、妻と離別した後、懇意になった女性・ルセッタが彼を追ってキャスターブリッジに現れたことから、暗雲が広がり始めます。

・・・ああ、長い!あらすじなのに!後は端折ります。

結局ヘンチャードは破産し、妻は亡くなり、娘も実は船乗りの娘(ヘンチャードの実子は幼くして死去していた)で他人だったことが判明、どん底に落ちますが、自分の罪多かった人生を償うように、ひっそりと、ある意味穏やかに死を迎えます。

この作品、とにかくヘンチャードというキャラが濃い!
聖人君子からは程遠いのですが、エネルギッシュで自分の感情に常に正直なのです。
生き方は下手だし、酷いヤツなんだけど、全くの悪人ではない。
無力でちっぽけで、でも、かけがえのない一度きりの人生を全力で生きた、そういう人物です。
まあ、彼の描写にハーディの力が入りすぎていて、ファーフレイが中盤から「つまんねえヤツだなあ」になってしまうんですが、それも気になりません。
ハーディ、ヘンチャードを全力で描写したのですね。
今の日本ではあまり話題にならない作家ですが、やっぱり好きです。

さて、細かいところでは、「ウェザベリーの農夫のジェイムズ・エヴァディーン」、「ボールドウッドという、いつもは静かで、無口な青年」(p.314)という記述に萌えました。
これ、「はるか群衆を離れて」バスシバの叔父さんと、若い頃のボールドウッドさんに違いない!
ってことは、「はるか」の20年前くらいの時代が想定されているんですね。
こういう話ができる、ハーディ友だちがいたらいいのにな、とちょっと思ってしまったことでした。

「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」を読んだ

平野耕太「ヘルシング」始め、吸血鬼モノ好きなので手に取ったこの本でしたが、目ウロコでした。
ざっくりまとめると、ブラム・ストーカーの名作「吸血鬼ドラキュラ」は、ヴィクトリア期英国が異質なるもの(文化、民族、未知の感染症etc.)の侵入と、それによって自国の従来のありようが駆逐されていく恐怖を象徴している、というお話です。
えー、小説って、必ずしも何かを象徴したり、隠喩したりして書かれるワケじゃないでしょ、ドラキュラは作者の素晴らしい想像力によるロマンだよ、と最初は思った私、早とちりでした。
そういう単純なことではないのです。
作家が生きた時代、その時代の雰囲気、臭い、生活、意識・・・あらゆるものが、作品を構成する要素どころか元素になっているということ。
それを納得させてくれる本でした。

そういえば、最近アニメ「銀河英雄伝説」平成版を見直した時、戦闘以外の場面でやたら違和感がありました。
民主主義のはずの同盟側の人々の生活ぶりが、何というか、20世紀な感じ(昭和な、と言いたくなるくらい)なのです。
中流以上の家庭には専業主婦のお母さんがいるのが標準らしいことを筆頭に、教育であれ職業であれ、女性と男性でコースは自ずから分かれているような、そういう「空気」になっていて、生活感に未来らしさがないんですね。
まあ、原作が書かれたのは昭和の時代ですし、私が忘れているだけで、ルドルフ皇帝によって「多様性」が否定されたことで男女のステレオタイプも退行した、という記述もあったかもしれないのですが。

2021年春の今、コロナ感染症やら女性・女系天皇、SDGsと多くの問題が論じられていますが、この中には、100年後に、「何で当時議論になったのか、感覚としてよくわからない」と言われるようになるものがあるかもしれません。
例えば「男系天皇って、要はあるY遺伝子の保存問題だったわけで、するとそもそも、途中で誰かウソついていて、そのY遺伝子が(以下自粛)。だから意味のない議論じゃん。」なんて言われるようになってたりして。
遺伝子論ではない、この時代の感じ方ってものが伝わっていくのか、それともこの本のように改めて解析しないとわからないことになってしまうのか、ちょっと興味が湧いてきました。

「ドラキュラの世紀末 ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究」丹治 愛著、東京大学出版会、1997年初版

「さいはての彼女(原田マハ)」を読んだ

1か月間お試し無料!につられて、Amazonのkindle読み放題で、片っ端から読みまくってます(セコい)。
原田マハさん、といえば、絵画と画家を扱った作品がメインかと思ってましたが、この作品には、走れない時のライダー垂涎(私のiPadはこの熟語を知らなかった・・・)モノのアイテムがぎっしり詰まってます。
夏の北海道、ハーレー、凄腕カスタムビルダーでもあるうら若いライダー女子、おいしそうな地元のお寿司!

ストーリーは、ひょんなことから北海道の路上で出会った女性ライダーとタンデムツーリングすることになった、やり手の女性起業家である主人公(というより語り手)と、魅力あふれる女性ライダーのロードムービー、いや、ロードストーリー?です。
一泊二日の思いがけない旅で、主人公が見出したものは・・・・

うーん、原田マハさん、「走り」の描写がみごとです。
爽快感は、角野栄子さんの「ラスト ラン」に負けてないです。

小心で、しかも神奈川県民である私は、この夏、呪縛にかかったみたいに、「プライベートな遠出」を忌避してしまっています。
自分が無症状感染者ではない、という確信が全く持てないからです。
出張途中の特急の中で、昼食のパンを手でちぎって食べたけど、手を洗ってから食べ始めるまでの間にドアノブ素手で掴んじゃった!とか、後から気にしてもどーにもならないことを数え上げてしまうので。

私タイプのライダーは少数派かと思いますが、もしそんな方がいらっしゃいましたら、ぜひこの「さいはて」をお試しください。
来年かその次かはわからないけれど、夏空の下を走るため、今の苦しさを乗り越えられる気がしてきます。

モンテ・クリスト伯にハマる

きっかけは、森山絵凪氏のコミック版「モンテ・クリスト伯」でした。
この方の作品、掲載が青年誌だけあって、お約束で濡れ場というかライトエロが数ページ入ってくる(!)のがやや難点で、あまり人に勧められないのですが、そこを大目に見て後悔しないくらい、感動したのです。
そのため、森山氏があとがきで勧めている岩波文庫版をkindleでほぼ一気読み!

・・・よかったです。
ページめくり過ぎで、右手の人差し指の皮膚が硬くなってきた気がするほど、夢中で読みました。
児童文学版にまとめられた「岩窟王」などでよく知られている通り、ざっくりいうと、無実の罪で14年間を牢で過ごした主人公(エドモン・ダンテス=モンテ・クリスト伯)が自分を陥れた者たちに復讐するお話です。
でも、陰惨なテーマを扱っているようで、実は救いのある物語、なんですね。

この主人公、モンテ・クリスト伯という人が、復讐に燃えると言いつつ、何というか、人格者なんです。
そして、信仰厚いクリスチャン。
人格者で、神の正義を信じるが故に、人の道を外れた人間に容赦ないけれど、高潔な人、不幸にある人に対しては限りなく優しい、という人物。
ベースがクリスチャンだから、こういう行動様式になるのかな?仏教徒だとどんなストーリーになるんだろう?などと考えてみたりして。

ラストシーンは、涼しい海風を感じさせるような清々しさでした。
自分を不遇だと思う時に、読み返すことで勇気が出てくるに違いない7冊でした(岩波文庫版の全訳の場合)。

日陰者ジュード(ハーディ著、小林清一訳、千城刊)

夏風邪が長引いて、連休中日は休養&読書で過ごしました。
で、読み終えたのが「ジュード」。
最近、ハーディにハマってます。
19世紀ビクトリア朝のイギリス、貧しい青年ジュードは学問を志しますが、貧しさと身分制のため果たせず、愛する女性とも宗教に阻まれて結ばれず、失意のうちに若くして無名のまま病没する、という、私があらすじを書くと身もフタもない話みたいになりますが、まあ、そんな内容です。

テーマは重いんですが、意外に心に残ったのは、脇役しかもタチの悪い女性キャラでした。
その女性、アラベラは養豚家の娘ですが、まじめでいい夫になりそうなジュードに目をつけ、誘惑し、妊娠したと偽ってジュードと結婚します。
まあ、悪女なんですが、何というか、生命力にあふれ、生きる意欲に満ちているのです。
時代に押し潰されていくかのようなジュードとは対照的に、時代をたくましく生き抜いていく人物です。
私はアニメ「ルパン3世」の峰不二子ちゃんを思い出しました。
脱線しますが、こういう輝くように生きる不二子ちゃんの魅力を最大限に引き出し、テレビ版の女性性を武器にするイヤラシさを排除したのが「カリオストロの城」だった気がします。

若い頃だったら、絶対嫌ったに違いないキャラの魅力も評価できるようになったとは、私も年を取ったもんだ、などと思ってしまいました。

「勝つ人のメンタル」(大儀見浩介)がついに出た

出張帰り、新神戸駅の売店で買って読みました。
「勝つ人のメンタル トップアスリートに学ぶ心を鍛える法」(大儀見浩介著、日経プレミアシリーズ)、ついにビジネス書のジャンルで出たか、というのが最初の印象です。

二輪車安全運転大会系の方(?)には既におなじみかと思いますが、いわゆる「ゾーン・フロー」、つまり緊張とリラックスの中間にある、最もパファーマンスの上がった状態で勝負所を迎えるための訓練方法についての解説本です。
参考文献のページを見ると、ああ、たぶん、あの話はこの本、その説はこっちの資料、などと出典が想像できそうな気がしました。

ものすごく大雑把にまとめると、試合やプレゼンテーションの本番で、普段通りあるいはそれ以上の結果を出すための技法です。
私もかつて二輪車安全運転大会の選手だったころ実践し、想像以上の結果になったという経験がありましたので、仕事にも応用できないかな、とはうっすら考えていました。
が、どうすれば仕事に応用できるか、その具体的な手法はわかりませんでした。
だいたい、フツーの技術系サラリーマンにとっての本番っていつなのよ?
現場のおっちゃん達と渡り合う時か!?
利害関係のある社外の人々とバトルする時か!?
・・・あまり書くと、柄の悪いブログになってしまいそうですが、「本番」をいつと見定めるか、実際にはそれが一番重要なのかもしれません。

自分にとっての本番を見極め、達成すべき目標が見えた時、この本がきっと役に立つ!
・・・かどうかは人それぞれと思いますが、私がバイクで実践してきたトレーニングを、例えば会社の人に説明するには良い本かな、という印象です。

「本番に強くなる」と「ボディ・ブレイン」


「本番に強くなる -メンタルコーチが教えるプレッシャー克服法-」白石豊著、ちくま文庫
「ボディ・ブレイン -どん底から這い上がるための法則-」下柳剛著、水王舎
の2冊は、セットで読むのがオススメ。

「本番に強くなる」で白石氏が示すメンタルトレーニングを下柳氏が実践した回顧録?が、「ボディ・ブレイン」です。
私は「本番」の方を先に読み、実践し、挫折した後、「ボディ」を読みましたが、順番はどちらでもいいでしょう。

さあ、私もどん底から這い上がろう。

「黒薔薇」(吉屋信子著)を読んだ

初めて読みました、少女小説の巨星・吉屋信子さんの本!
美しい表紙に惹かれ、バーゲンブックで出ていたことに惹かれての購入です(笑)。
因みに表紙画の松本かつぢさん、偶然にも現在、弥生美術館で展覧会開催中とのこと。

さてこの「黒薔薇」(くろしょうび、と読みます。ばらじゃないの)、もともとは吉屋氏のパンフレット、内容としては毎月発行する個人誌(要は一人で出してる同人誌か?)のタイトルだそうです。
今回読んだ「黒薔薇」は、その個人誌に掲載された作品からのセレクト集として編集されています。
そしてさらに、巻頭の長編作品が「黒薔薇」で、原題は「或る愚しき者の話」・・・ややこしいな。

ストーリーは、以前紹介した「乙女の港」同様、大正期の女性同士のプラトニックな恋愛を扱ってます。
川端康成作品との決定的な違いは、ヒロイン章子のイキの良さ!
教え子の和子に純な思いを寄せつつ、職場である女学校では旧弊な校長や周囲を思いっきりクサします。
が、自分から鎧で固めた聖女のごとく反旗を翻すのではなく、ひたすら心の中で悪態つきまくるのね。
それが態度に出てしまうこともあるのですが、本人に、周囲を変えようという強い意志はほぼ皆無です。
そのある意味中途半端さが、章子の存在にリアリティを与えています。
今でも結構いると思います、こういうタイプ。

ストーリー自体は、章子目線の語りになったり、作者の語りになったり、けっこうハチャメチャな部分もあります。
作者は「15章から章子の文体に変更」とお詫びの文章を入れていますが、私の読解力では、1~8章が章子目線、9~14章が作者、15章以降が両者入り乱れ、に取れました。
ま、元が個人誌だし、そこは気にするトコじゃないでしょう。
それよりも、吉屋信子という作家が、出版社だ編集者だといったしがらみから自由になって書こうとした世界を堪能できることが、この作品の良さなのだと思います。

最後に引用。
「伝統と習俗と境遇のつれなさにめざまされた自我はやがて自らを主としてこれらに打ち勝たねばならぬ。世界を自らの価値に計量し直さねばならない。この自我の確立と成長と進展こそは人間の一生にかけられた唯一のまことの仕事なのである。(中略)おとめの日のこの自我の目覚めこそは祝福されねばならない。」
同時収録された「若き魂の巣立ち 学窓を出る姉妹に捧ぐ」の一節です。
女性に対する、温かな愛情を感じませんか?

「戦争の日本近現代史」(加藤陽子著、kindle版)を読んだ

「東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」
というのがこの本のサブタイトルです。
軽っ!と感じる方が多いのかもしれませんが、私はこのサブタイトルがあって正解だな、と思いました。
反戦もしくは反反戦(そんな言葉あるのか?)を訴えることを目的とせず、「戦争にいたる過程で、為政者や国民が世界情勢と日本の関係をどのようにとらえ、どのような論理の筋道で戦争を受け止めていったのか、その論理の変遷を追ってみるというアプローチ」(シラバスより)を取った、分析的な論考だからです。
・・・こういう本が読みたかった!

多分に教科書的ではあるのですが、歴史研究者ではない人間が普通は見ることのない資料をベースに、歴史の一辺を知ることができる良書だと思いました。
因みに著者は、本書の新書判出版後に「それでも日本人は戦争を選んだ」という本を出しています。
私は未読ですが、こちらは歴史好きの中高校生に向けて行われた講義の記録だそうで、いずれ読んでみたいと思っています。

そんな感じで、感情を揺さぶられる類いの本ではないのですが、「あとがき」に著者の思いとも取れる一文がありましたので、引用しておきます。

「歴史は、一回性を特徴としますから、いくら事例を積み重ねても、次に起こりうる戦争の形態がこうだと予測することはできないのです。ただ、こうした方法で過去を考えぬいておくことは、現在のあれこれの事象が、「いつか来た道」に当てはまるかどうかで未来の危険度をはかろうとする硬直的な態度よりは、はるかに現実的であるといえるでしょう。」

納得、です。

「教場」(長岡弘樹著)を読んでうなされた

「こんな爽快な読後の悪さは初めてだ」
帯に掲載された、書店員さんの一言コメントですが、まさにその通り、です。

教場というのは、一般の学校でいう「教室」にあたるようです。
そう言えば、砧の旧センター建屋3階にあった広い部屋を「教場」と言ってましたね~。
この小説は、警察学校で学ぶ警察官の卵(というより、ひよこぐらいか?)たちの、ドロッドロの人間関係を描いた、ミステリー・・・なのかなあ。
私にとっては、ほとんど生理的に受け付け限界くらいの描写にあふれた、恐ろしい1冊でした。

このブログをご覧になっている方が、この小説をお読みになったら、ほぼ100%感情移入しそうな登場人物が1名いますが、決して入れ込んではいけません。
でないと、私のように夢にまで見てうなされます。
読書で、ある意味コワい思いをしたい方にはお勧めです。